凄まじい世界へようこそ

 

この言葉は私の師匠・山内派廿代目相伝者・山越正樹先生の門を叩いた時に戴いたものです。その時既に約20年鎌倉での稽古を積んできていたのですが、どうしても山越先生の直伝・口伝による稽古への篤い想いを捨て切れず京都武徳殿に赴いたのでした。

 

    無雙直傳英信流居合術・山内派廿代目相伝者

                       山越 正樹先生

          無雙直傳英信流居合術・印可

            山内派・鎌倉道場主    屋島 二郎

 

           

 

無雙直傳英信流とは土佐藩御留流となった居合術である。

山内派とは、幕末の四賢候と称された・山内容堂公のお孫さんにあたる山内豊健公が17代大江正路から根元之巻を伝授され、明治大帝の聖旨により、容堂公の遺功を以って立てられた山内子爵家の居合として山内派を名乗った事に由来する。(土佐武道史話参照)

 山内派18代山内豊健・19代宇野又二 ・20代山越正樹・21代屋島二郎 。  

 

何故居合術が土佐藩御留流となり得たか

 

                時代背景からの考察 

 

 

始めに、英信流居合術が世に受容れられた時代背景を見てみたい。

そもそも幕藩体制の根幹は士農工商の身分制度・世襲制、米本位制にあった。この封建的経済体制が歪んで行くきっかけとなったのは、米価の変動が天候や自然災害の他に、各藩の新田開発等により,長期下降トレンド入りしたのが最大の要因となった。
そして、参勤交代制により赤字に陥った藩経営は御用商人からの借金と家臣の俸禄借上げ、米以外の換金作物の奨励と専売へと走り、年貢の締め上げを嫌った一揆が各藩に飛び火した。    幕府の裁断も殿様の権威よりも、藩の秩序・安定重視に傾くようになっていった。象徴的な事件となったのは、土佐藩の隣藩阿波蜂須賀藩の藍玉一揆後の顛末である。幕府は、専制的に藩政改革を遣り遂げようとした英傑の藩主に、処罰隠居の処分を下したのである。(藤沢周平著・漆の木のみのる国、参照)

長谷川主税助英信が伝説の如く千石以上の大身の武士なれば、重信流から英信流への流れはこうした時代背景の下に断行されたと見るべきではないだろうか。つまり、領国を守る武力と知略を持つ支配者から、領国の安定的繁栄を目標に“自立した地域特性を領国経営に反映させる”リーダー”と云う役割期待の変化が、新たな武士像として時代の要請を受け始めていたと考えられるのである。

重信流から英信流への居合術の変化も、如何にして敵を打ち負かすかから、居合う事の大事と、場の秩序を破られた時は一切の執着を捨て、一剣に命を捧げる社会秩序の守護者としての剣に重点が移って行ったと見た方が妥当と思われる。現実に徳川幕藩体制固めの変化を領国経営に反映させられねば、お取り潰しとなる藩が続出したのである。

そうした時代背景下、土佐藩江戸勤番の藩士・林六太夫守政が第九代を継ぎ、無雙直伝英信流居合術を土佐に持ち帰り、幕府の締め付けと時代風潮の変化を藩士に広く浸透させる目的もあって、御留流になったのではないかと云うのが私の見解である。

 

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